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いくら帰ってくるなと言っても、限度があるだろっ!

 所長は、帰ってきた社員にとって契約が取れているなら仏様であり、取れていなければ地獄の閻魔大王なのである。
 その日、おっさんの係は、あまり良い結果がでていなかったから、皆これはひと荒れ来るぞと身構えながら結果報告を終え「お疲れさまでした。」という、おっさんの締めの言葉で、全員が明日の準備(明日の現地の地図・見込み客等の確認)をはじめた。
 いつもは、遠くから報告を聞きながら、カエルを睨んだ蛇のように静かにやってきては、ドカンと雷を落とすのが所長のスタイルだったが、この時は結果報告がすんだとたんにやって来た。
 そしてまた、あの能面の様なポーカーフェイス(閻魔顔より気色悪い)で、夏のイベント開催の予告と期間、達成目標などを発表したのだ。
 今日の午後に本社から決定の知らせが来たとかで、明日の朝礼でも詳しく話すが、一応話しておくということだった。
 この会社では毎年、夏と冬の年二回、営業成績の向上と優秀な営業社員への慰労のためにイベントをやっていた。
 簡単に言うと、決められて支社目標が達成され、個人の営業成績によって7泊8日の海外旅行がプレゼントされるわけである。
 もちろん、海外旅行など行ったことのない新入社員は目の色を変え必死になって仕事に取り組み出すし、責任者にとっても力量を問われる試金石となるので熱が入る。
 まずは、支社目標達成が必要だが、あとは課長だろうが、係長、主任、平社員であろうが役職関係なく、その期間で決められた成績を上げた者だけが、海外旅行に無料で行けるのである。
 但し、所長だけは特別で支社目標達成させた一番の功労者として無条件で招待される。
 おっさんは新人の時期に二度、このイベントに参加したが、言うまでもなく行けなかった。その時に営業成績は海外旅行どころの騒ぎではなかったのだ。なにしろ半年以上も契約が取れなかったのだから・・・。
 所長に言わせるならば、おっさんは全く融通のきかないカタブツ社員ということだった。
 これは、おっさんとしては話したくないエピソードなのだが、所長が何故、おっさんをカタブツと評価するのかが理解しやすい出来事として示しておこう。
 おっさんが、やっと初オーダーを出して、まだ二、三ヶ月程が経った頃の話だが、支社全体の売上げが落ち込んでいた時期のある日
朝礼で、所長は檄を飛ばした。
 「いいかっ!今日は契約が取れるまで帰って来るな。営業は定時で終われる仕事じゃないんだ。責任者もしっかり、自覚して現地を回ってこい。取れもせず、のほほんと帰社するような奴は会社に入れんぞっ!そのつもりでやってこい。」とこう言ったのだ。
 各責任者(おっさんは、この時は平社員だった)も係員へと同じ事を言った。
 「契約が取れなかったら、車では帰れないと思って仕事をするようにっ!」
 そうして、現地でも最終九時の集合で終わるはずの営業は、十時近くなって再び始まったのである。実際にはこんな時間に玄関を開けてくれるお客様などあまりいるものではないのだが、責任者としては、何もせずに帰る訳にもいかないという心積もりだったのだろう。 
 ところが、思い込みの人一倍激しい、おっさんの事である。そのままダイレクトに受けとって現地を回りだしているものだから、帰ってこない。シビレを切らした責任者が帰ったのは夜中の一時近くだったそうである。
 そして、おっさんは、めでたく契約を取り二時少し前にお客さんの家を出て、自分のアパートまで四時間ほどかけて帰った。
 一時間半ほど、仮眠をしたくらいで出社したおっさんの顔を見るなり、所長は火のついたような真っ赤な顔をして怒鳴った。
 「いくら帰ってくるなと言っても、限度があるだろっ!」

九割方、前沢係長の受け売り

 あの短大卒の女子社員が毎日遅れて出社することは前にも話したが、その為に、おっさん達の係は、いつも会社を出るのが一番最後だった。
 それを、いちいち叱っても、気にしていても仕方がないので、皆いつの頃からか諦めていて、その時間を有効に使おうとロールプレイ(自己紹介から、商品説明を経て、契約するまでの話の流れ)をチェックすることに当てていた。
 だから、係員は皆だんだんと話が上手くなっていった。
 男性社員二人は、なかなか結果を出せずに苦労したが、それでも、そこそこは頑張った。
 二人の女子社員も、一人は秀でた営業成績を上げたし、遅れてくるもう一人も、新人にしては、まずまずの成績を出した。
 「やっぱり相手がお母さんだから、女性の方が受けがいいってことかな。」と威勢のいいガラッパチタイプが言うと「それを言うなら、うちで一番営業成績を上げてるのは主任だよ。主任は男なんだから、それは理屈に合わない。ただの言い訳にしかならないと思うよ。」と、おとなしい方が、お世辞まがいの、最もらしい道理を説く。
 まったく対称的なものだと思いながら、二人の問答を何度となく聞いたものである。
 そういう時は、おっさんもつい調子に乗って「いいか、一番大切なことは、この商品に惚れ込むことだ。そして売ろうとばかり考えず、この商品の良さを説明することに集中しろ。お客様は俺達の話す言葉だけを聞いているんじゃない。俺達の話し方、態度、熱意、誠意等の全てを見ているんだ。つまり鏡だ。その上であくまでも判断を下すのはお客様だ。お客様が何故、一時間足らずの説明で、こんな高価な教材を買って下さるのか考えたことがあるか?どんなに話が上手かろうと、それだけじゃあ買ってはくれない。最後の決め手は信用だ。自分の説明を押しつけず、誠意をもって、ひねくれずに回っていれば、分かって下さるお客様が必ず出てくる。そういう人を足で捜すんだ。」と、ここら辺で記憶力の良い人なら、すでに笑っておられるかもしれないが、おっさんは、このセリフを言いながら、もし前沢係長や所長に聞かれでもしたら、恥ずかしさで顔から火がでそうになり、どこかの穴でも捜して入りたくなることだろうと思いつつ、現地へと向かう車の中で四人の係員たちへと偉そうに、よく話して聞かせた。九割方、前沢係長と所長からの受け売りである。
 けれども、その他の時は、明るく楽しく元気よくと言った感じで、やはり歌好きなおっさんなのである。
 新入社員にリクエストをさせ、運転しながらよく歌を唄った。
 むろん、おっさん一人だけが唄うわけではない。
 さすがに初めのうちこそ猫をかぶって恥ずかしがっていた四人の新人係員は、皆 歌好きのカラオケ好きで、この一点で共通していた。
 だから、市場へと向かって行き、唄いながら帰って来るのである。
 だから、時々、信号待ちで止まったりすると、隣に並んだ車の運転手などから、いぶかるような変な顔をされたものである。
 おそらく他の係にはない、一つの特徴だったと思うが、気分が暗いときでも、歌を唄い大声を出すというのは人間を明るい気分にさせる作用があるようで、先刻まで落ちこんで慰めようがないと思うくらいに泣いていた女子社員が、その涙の乾く前から唄いだし笑いはじめるのを、おっさんは何度も目にしたものである。
 帰社する頃には皆、楽しそうに車を降り、会社へ入るが、結果報告をするときだけは、皆むずかしく、鹿爪らしい顔になる。
 目の前に所長がいるからである。

責任者へ昇格

 少し横道にそれてしまったので、話を元に戻そう。
 そんなわけで、おっさんも、めでたく責任者へと昇格してしまったわけであります。
 さて、それからが大変でありまして、四名の係員を従え管理しなければならないわけです。
 見るのと、やるのとでは大違いとは、まさにこのことで、まともで当たり前な者はそうそう居るものではありません。
 おっさん自身も他人の事がいえたものではありませんが、実に一クセも二クセもある連中と付き合っていくことになったのであります。
 おっさんの係りに配属されてきたのは、男二人と女二人で、もちろん新入社員であります。
 ついこの前まで、おっさんも新人のつもりでありましたが、もう入社して一年が過ぎており、この頃にはトップセールスマン達にも一目置かれる存在となっておりました。
 むろん、トップセールスマンには、まだまだ遠くおよばない成績でしかありませんでしたが、皆が言うには、おっさんは大器晩成型だということでありました。
 平社員のうちは、それでおだてられ、いい気になっておればよかったのですが、責任者となってしまうと、そうはいきません。
 嫌でも、係員一人一人の生活を考えてやらねばならず、時には自分の営業を一日捨てて、逆同行。 つまり係員の後に付いて、その仕事ぶりを見てやり、アドバイスを与えたり精神面のケアをしてやらなければならないのであります。
 要は以前に、前沢係長や所長にしてもらったことを今度は、自ら係員へとしてやるわけです。
 そして、初日から波乱は起こりました。
 係員の一人が出社してこないのです。
 もしや連絡もなしに休んだのか。あるいは辞めたのか?と思っていましたが、事務方から自宅へと連絡をとってもらったところ、家はもう、とっくに出たと言う事だったので、待っていると四十分後に彼女はやっと出社して来たのであります。
 短大を卒業したばかりの、可愛らしい女の子なんですが、これが困った娘で、これ以降一年近く、毎日遅刻してくるようになるのであります。
 さすがの、おっさんも皆の迷惑も考えろと、何度か真剣に怒りましたが、その時は反省したように泣きながら謝るのですが、また遅刻してくるのであります。
 そのうち、おっさんもバカらしくなり、放って置くようになりました。
 もう一人の女子社員は、四年生の大学を卒業したということで頭もよく、営業成績もおっさん達と肩を並べるほどの実力を発揮しましたが、一人っ子で泣き上戸なのであります。
 外で営業をしているときは、堂々としたものなのでありますが、車内へと戻ってくると、あんなことを言われただとか、あんなにヒドイ仕打ちはないだとかと、愚痴をこぼしながら泣くのです。まるで自分が世界で一番かわいそうなヒロインとでも言わんばかりで、この女子社員にも手こずりました。
 あとの二人の男性社員ですが、これが真反対の性格でありまして、一人は声も小さく何をするにも自身がないという感じのお坊っちゃまタイプ。もう一人は陽気で明るく気合いも十分という好青年でありますが、少々ガラッパチみたいで、売ろうと焦るあまり、あまりお客に信用してもらえず、どうにも契約には結びつかないという、まことに損なタイプの男でありました。
 とにもかくにも、こういう連中を引き連れて、おっさんの、中学課四係はスタートを切ったわけでありました。

うどん三杯おかわり

ところが、残りの十日間で奇跡は起こった。
ちょうど、市場が変わって一日目に三件の契約が決まった。
 そして、二日目・三日目 三件という具合に取れはじめ、なんと十日間で十六件のオーダーがフルセットで取れてしまったのである。
 ちなみに、フルセットで三十万円もするのだ。それを一時間足らずの説明を聞いただけで決定してしまうのだから、どれほど教育に関心を持っているのかが分かる。
 おっさんの周囲の者は皆、目をまるくして驚いた。なにより、おっさん自身が信じられないといった心境であり、まるで夢でも見ているようだった。
 お客は、身をのりださんばかりに熱心に話を聞いてくれるし、説明が終わると二つ返事で買うと言ってくれるのだ。
 さも、責任者になることは、もう決められていたかのような展開になってきたのである。
 それなら、同じ市場を回っている者たちも契約数が増してきたのかといえば、結果はその逆で同僚の者たちは現地の文句ばかり言っていた。
 おっさんのお客だけが特別だと思うのは変だが、何故だか人の好い素直な人ばかりに出会ったとしか思えなかった。
 何が違っていたのか?全く分からなかった。
 強いて言うなら、無欲で現地を回っていたということくらいである。
 おっさんは売れようが売れまいが、この商品の説明を聞いてくれようとする人には一生懸命に話した。
 またそれが楽しかったし、勉強嫌いだった自分の過去の経験から、この教材の良さを実感してもいたのだ。
 月に、たったの三ページ分の基本をしっかりと理解するだけで、重要なポイントが全てつかめるというこの教材は、まさに勉強嫌いにとっての救世主なのである。
 おっさんは、つくづく自分の中学生の時にこういう教材があったらなぁ・・・ とよく思ったものだ。
 なんだか、自慢話のようになってきて申し訳ないけれども、これは事実なのである。 
 その代わり、悲惨な思いも結構してもいるのだ。
 営業という職業、特にアポなしでの飛び込み訪問の営業というのは、どうしても良い時と悪い時の波が出てくる。
 契約が取れているときは天国だが、取れなければ、そのまま地獄なのだ。
 おっさんにしても、一週間近く飯ぬきで仕事をしたことがある。
 見るに見かねて、お金を貸してやるという者もいたが、その頃のおっさんは変なところに意地っ張りであり、見栄を張るタイプの頑固者だったので、その申し出は丁重に断った。
 けれども、訪問先のお客さんから言われて、うどんをご馳走になったときは、三杯もおかわりをしてしまった。
 やはり人間というものは、食べていないと元気がなくなるものである。
 その家に入った時も、蚊の鳴くような小さな頼りない声で挨拶をし、説明をしていたようである。
 契約が決まって、契約書をカバンへと入れて帰ろうとした時に、お客が一言こういった。
 「それにしても、あんた元気がないね。ちょうど今、うまいうどんがあるから、ちょっと上がって食べて行きなよ。沢山あるから何杯おかわりしてもいいから。」と信じられないくらいの良いお父さんだった。
 そして、図々しくも三杯もおかわりをしてしまったのである。
 その時は、その人がまるで神様か仏様かと思えるほど感動し、涙が出そうだった。そのうどんの味は今でも忘れられない。

所長が主任候補と認定!

 それから、営業という仕事を少しずつ理解してきたおっさんは、いっぱしの売り上げを上げるようになっていった。
 もちろん、口下手なおっさんの武器は足である。とにかく、歩きに歩き回り興味を持ってくれるお客様を捜す。
 この一点が功を奏してきたのだ。
 所長も首をかしげながら、「よく、君のその説明でお客は契約をしてくれるものだな。」と不思議がっていた。
 だが、説明の上手い下手は、それほど重要なことではないと、もうこの頃のおっさんは分かってきていた。
 どれほど訥弁であっても、一生懸命さと、素直さが伝われば、お客様は信用してくれる。そういう確信をもって現地を回っていた。
 確かに、立て板に水の流れるように、スムーズにクロージングまで能弁に話せる営業社員には、売り上げを伸ばしている好成績者が何人かいたが、そういう者の多くは安定した成績が上げられ無かった。売り上げの良かった次の月か、翌々月にはガタッと成績が落ちるのである。
 しかるに、不器用ながら、ただバカの一つ覚えのように足で稼ぐおっさんの営業成績は下がることはなく、少しずつではあったが安定して上昇していった。
 そして、驚いたことに、半年後には、責任者候補に目されはじめたのである。
 ここで少し、この会社の社員階級を説明しておこう。
 この会社では、まず平社員、主任職三級、二級、一級と昇格していく。次に係長三級、二級、一級。その上が課長代理、課長、次長、部長、本部長、取締役社長という具合に構成されていた。
 平社員から主任三級へと昇格すれば、四人の部下を従えて一班の長となるわけだが、それには所長が主任候補と認めてから後、少なくとも三ヶ月間の売り上げが平均して十セット以上でなければならない。
 それは簡単なようで、なかなか難しいことだった。
 着実におっさんの成績は伸びてはいたが、十セットにはほど遠く、やっと七・八セット売れるようになったという程度だったのだ。
 けれども、これが一年前には一セットも売れなかった男なのだから、我ながら成長したものだと思っていた。
 だが、責任者になるなど、とんでもない話であり、その時のおっさんには冗談話くらいにしか思えなかった。
 ところが、所長は勝手におっさんを主任候補と認定し、本社へと報告を入れ、三ヶ月間の挑戦へとレールを敷いてしまったのである。
 おっさんは、嬉しい反面、不安でいっぱいだった。世間でよく言うプレッシャーというやつである。
 これまで、あと一歩というところで失敗した社員は数多くいた。
 しかしながら、逃げ出すわけにもいかず、おっさんは覚悟を決め挑戦しはじめたのであった・・・。
 そして、一ヶ月目 十セット。二ヶ月目 十二セットと順調に売り上げ成績を伸ばしていったおっさんは、三ヶ月目に入ってスランプを迎えた。
 ピタッと契約が取れなくなったのだ。一週間が過ぎ、二週間目に入っても取れない。全く一件も取れず半月が過ぎ、二十日間が経ったがやっぱり売れない。
 周囲の誰もがこの時、おっさんをやっぱり無理かという目で見ていたはずである。
 けれども何故かおっさんの心はフッ切れていた。ようするに、開き直っていたのである。責任者になることよりも、自分の惚れ込んだこの商品の良さをお客様に、いかに分かり易く伝えられるかだけを考えていた。
 さすがの所長も、この頃には諦め顔をしてタメ息ばかりついていた。