おっさんは、初オーダーの喜びに舞いあがった。
一人のお客様に信じてもらえたという事実が、思っていた以上に嬉しかったのである。
そうして、喜びいさんで、前沢係長へと報告をした。
「そうか。やっと取れたのか。よかったな、おめでとう。よしっ今日は、俺のおごりで祝杯だ。」と、係長も自分のことのように喜んでくれた。
けれども、この祝杯というのが、くせものだったのである。だが、この時のおっさんには、悪い予感など入り込む余地などなかった。
仕事が終わって、さあこれから行こうか、と前沢係長は、はりきっていたが、どういうわけか新人以外の係員は皆、おめでとうと喜んではくれたが、それぞれに用事があるといって、せっかくの前沢係長の誘いを辞退した。
結局、おっさんを含めた五人の新入社員だけが、前沢係長に引き連れられて、この祝杯という名目の飲み会へと参加することになった。
前沢係長のいきつけのスナックというのがこれまた大きなホールになっていて、百名くらいは入れそうなところだった。
その日も満席に近い状態で、他を当たるかと係長は迷っていたようだったが、常連さんだということで、ママが気を使ってくれて、なんとか席を取ってもらった。
腰をおちつけて、乾杯が済むと、ちょうど新入社員ばかりだったからか、前沢係長は、こんな風に話しはじめた。
「いいか、営業というのは、契約を取ってなんぼの商売だが、取れないからといって落ちこむな。新入社員で一番多いのが、自分は契約が取れないからダメ人間なんだと思いこんでしまうことだ。いいか、はっきりと言っておくぞ、契約が取れるか、取れないかと、お前達の人間性とは、まったく関係はない。だから落ちこむヒマがあったら、他の家に一件でも多く足を運ぶことだ。これからまた、いろんな経験をすると思うが、一つ覚えておけ。会社の為に仕事をするんじゃなく、自分の為に仕事をやれ。」
おっさんは、さすがに良い事を言うなぁと、関心していたが、他の新入社員たちも、係長の言葉に感動して真剣に聞き入っているという様子だった。
「さぁ、仕事の話はこのくらいでやめて、歌でも唄うか。」と、前沢係長は卓上にあったマイクを握って近くを通りかかったボーイさんに「いつものヤツ」と言うと、それだけで分かったのか、ボーイさんはニコッと笑ってうなずいた。
そうして、流れはじめたのが、 あゝ上野駅 という、ずいぶん古いナツメロだった。
この歌は、もちろん、おっさんをはじめ他の新入社員たちも全く知らない歌だったが、係長が唄いはじめると皆、「うわぁ」という声をもらした。
それほどに前沢係長の あゝ上野駅 は上手だったのである。
この人は何故、歌手にならなかったのだろう?と、おっさんが真面目に思えたほど完璧だった。これには他のお客さんも拍手喝采で、大きな歓声があがった。
そうして、今度は、おまえが歌え、お前も歌えと、順ぐりに歌を唄い楽しい会話をしながら、時間は過ぎていった。
さて、これからである。かれこれ一時間半ほどもたっただろうか。それまで、一つのグラスを空けるのに、五・六回は手を伸ばしていた前沢係長の酒を飲むペースが、急に早くなってきた。一つのグラスを一回で一気にグイッと飲みだしはじめ、その目つきが、トロンとして。ちょうど塩をかけられたナメクジのように、生気を失いかけながらも、何か必死にもがいているような感じに変化してきたのである。