けれども、さすがに前沢係長と言えども人の子である。
次の家のお客には、手も足も出ないという感じであった。
とにかく、取り付く島もなく、帰れ帰れの一点ばりで、アプローチアウト(お客様に玄関先で断られること)を食らって、家を出された。
少し、がっかりしたような顔をして、前沢係長は「コーヒーでも飲んで、しばらく休憩しようか。」と言った。
ところが、おっさんが小銭を渡され自動販売機から、二本の缶コーヒーを買ってもどってくると、ああでもないこうでもないとブツブツ言いながら、何か考え悩んでいる様子だった。
おっさんには飲めとすすめた缶コーヒーだが、自分のには見むきもせず、何かを深く考えこんでいたようだが、急にポンと膝頭をたたいて「よしっ、やってみるか!」と言った。
おっさんには、もうしばらくここで待っているようにと言い残し、また先刻のアプローチアウトを食らった家の方へと歩いて行ったのである。
そして、家の前まで来ると、ごそごそと何か身づくろいでもしているように、しゃがみこんでなにかやっていたようだが、すぐにまた、前と同じように、呼び鈴を鳴らし家へと入っていった。
ところが今度は、なかなか出てこない。
十分、二十分しても出てこないのだ。
どうしたんだろうと思いながら、おっさんは待っていた。そうして四十五分もたっただろうか、やっと前沢係長が、ニコニコと笑いながら戻ってきて「おう、契約取れたぞっ!」と、よほど嬉しかったのだろう。スキップしながら、おっさんの周りを2回ほどまわったのである。
「よくあんな、きついお客様との壁が取れましたね。今度はどんな方法だったんですか?」
これは、おっさんの中から思わず出た、一番聞きたかった質問である。
「いやぁ、たいしたことじゃない。七三分けしていた髪形を、まん中分けにして、メガネを逆さにして行ったんだ。そうして、挨拶をはじめたら、あのお客さん普通に話を聞いてくれてさ。すんなり契約までしてくれたってわけだ。たぶん別人と思ったんじゃないかな。」と言って笑っていた。
けれども、おっさんには、とうてい信じられなかった。(あんたの顔が、そんなことぐらいで別人に見えるもんか。それに別人だからって、あれほどきつい客なら、断られるに決まっている。おそらくお客さんが、あきれたのか、根負けしたのか、たぶんそんなところだろう)
けれども、前沢係長は、恐るべしである。
この男は、まったく落ちこむことを知らないのだろうか?一見どうにもならないような状況を、なんとか工夫して、ひっくり返すのである。
まるで、バケモノか天才か・・・・・バカか。
いや、バカだろうが何だろうが、セールスマンにとって契約が全てなのである。
法律に違反していなければ、契約として立派に成り立つのである。
たとえば、押し売りなどは法律にふれる犯罪である。(いろんな家をまわると、よく話をきいた。)
だが、前沢係長は一切そんなことはしない。ただ、考えられないほどのバカを演じるだけの話である。
やはり、天才と呼ぶほかはないと、おっさんは思った。
けれどはっきりと、おっさんが自覚したのは、絶対に前沢係長のマネなぞはできないということだった。