「そんな声じゃあ、せっかくの名曲がもったいない」と、オッサン達の目の前に立ちはだかり平然と言い放ったのは、年のころなら六十四、五歳。半分は白髪で、がっしりとした体格の落ち着いた感じの初老の男である。
オッサン達とわざわざ複数形で言ったのは、今、オッサンはストリートライブを二人で行なっているのである。
つまり、オッサンの他にもう一人メンバーが増えたのだ。この人は、昔からオッサンの知り合いであり、元々ギターの弾き語りをしていたのだが、数年前からギターよりピアノが自分には合うということで、シンセサイザーを持ち込み、大丸前でオッサンと一緒にストリートライブをやっているのだ。
さて、話はもどって、先ほどの初老の男の事なのだが、この男、このセリフを吐いた後、手本のつもりであろうか、何やら口をパクパクと動かし、歌を唄っているようである。
いるようであると言ったのは、そう見えたという意味で、オッサンに、その唄声はまったく聞こえなかった。ちょうどテレビのリモコン操作を間違えて、チャンネルの変わりに消音のボタンを押したような感じである。
おそらく、どこかのカラオケ自慢なのだろう、自分の十八番をよく聴いて勉強しろと言いたいのであろうが、聞こえないのだから意味がない。
十中八九、この初老の男は、カラオケマイクを使ってしか唄ったことがないのだ。
親切心を出して唄い出したのは良かったけれど、アーケードの中は、かなり騒音のこもった場所なのである。会話をしながら歩く人々、荷物を乗せた台車を押している人、時にはトラックさえもゴミ収集にやってきたりしている。
そんな中で、普通にカラオケ気分で唄っても、聞こえるはずもないのである。
「聞こえないから、もう一度大きな声で唄いなおせ」と、オッサンは口元まで出掛かったセリフを飲み込んだ。
この初老の男にすれば、自分の自慢の美声を参考になればと、唄い満足しきっているのである。
「全く聞こえん」と。言われたら、さぞかしガッカリすることだろう。
「いやぁ、僕たちは、ただのド素人の歌好きですから、上手に唄えと言われても困ります。」と、少なからず皮肉を込めてオッサンは言った。
初老の男は、納得したように無言でうなずきながら帰っていった。
いやはや、世の中にはいろんな人物がいるものである。
オッサンは気がつかなかったが、この初老の男は、オッサン達の前を何度も行ったり来たりした挙句に、やっと思い切ったように、先のセリフを吐いたそうである。
これは、シンセサイザーの人の言葉であるが、「酒の匂いをプンプンさせてる、ただの酔っ払いですよ。 一緒に唄いたかったんじゃないですかねぇ、ただし、頼まれてもあの人の唄に僕は伴奏なんてつけたくありませんがね。」
これには、オッサンも同感である。どれほどオッサンがお人好しでも、自分の唄を貶した者と仲良く唄えるものではない。
本音を言えば、「上手かろうが、下手かろうが、オマエに関係なかろうが。余計なお世話だ。バカ野郎がっ!」
と、言ってやりたかったオッサンであった。