そうして、幸か不幸かおっさんは、この前沢係長の率いる中学課一係(幼児課から中学課まで、それぞれ三係ずつに分けられていた)で、めんどうを見てもらうことになった。
最初の三日間は何もせずに、とにかく前沢係長の後について、その仕事をしっかりと見て、頭に入れてこいと、所長はしつこいくらいに繰り返し、くれぐれも邪魔にならないようにと念を押した。
ちなみに、別室から出てきた、あのえらそうな男が所長である。
おっさんは、この所長とは、どうにも馬が合いそうにないと思った。
なぜなら、おっさんは、所長だろうが社長だろうが、えらそうな人物は嫌いなのだ。
それからしばらくして、中学課一係は現地へと出発した。
長野市といっても広く、前沢係長は、会社から車でだいたい二時間前後はかかる場所を、いつも選んでいたようである。
その日は、軽井沢の少し手前にある佐久町という、昔の宿場町へ行くということだった。
到着するまでには昼を過ぎてしまうので、途中で昼食を取るのだが、食事が終わっても、マンガを読んだり、雑誌を見たりして、一時間半くらいはゆっくりと過ごす。
だから、現地へは三時頃につくわけだが、すぐに仕事をするのではない。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。つまり、その土地の名所や旧跡を見てまわり、夕方の五時近くになって、やっと係員を現地へと降ろすのである。
係員といっても、車(ワゴン)が二台。おっさんも含めて十人いるのだ。その一人一人を決められた所へ、それぞれ降ろしたあと、おっさんと前沢係長が動きはじめたのは、もう六時近くになっていた。
もちろん、おっさんは所長の言葉通りに、邪魔をしないよう、話しかけもせず、前沢係長の陰にでもなった心境でいた。
そして、はやくも一件目の家で、おっさんはあきれるような光景を目にしたのである。
というのは、家の人が出てきたら、まずは挨拶と、自己紹介をするようになっているのだが、なんと前沢係長は、目の前にいる人の斜め横にある柱に向かって、それを始めたのである。
そうしておいて、おもむろにといおうか、しらじらしいというか、実に絶妙なタイミングで「あれっ、こちらにいらっしゃいましたか」と、あのにんまりと糸ミミズのはったような目の笑い顔を、お客へと向けるのである。
最初は、なにごとが起こっているのかと、しばらく呆然と見ていたお客さん(ほとんどが、その家の主婦)は、急に腹を抱えて笑い出す。
「なんなのよ、まったく。わざとらしい」と言いながらニコニコと笑っている。のっけから、もうしっかりとお客様との壁を取ってしまっているのである。
その証拠には、興味津々といった顔で、次ぎに前沢係長が何を言いだすのかを嬉々として待っている様子が見てとれるのである。
そこからは、あたりまえのように前沢係長の一人舞台である。
自然な流れで話はどんどん進み、いよいよ商品を見せる段階になる。すると、そこで一呼吸を置き、前沢係長はこう言った。
「いいですか、お母さん。これは、そんじょそこらにある教材とは訳がちがいますからね。いいですね。教材だと思ったらいけませんよ。今からお見せしますから、いいですか、はいっ!これです」と言いながら、どこからどう見ても、まぎれもない教材を出すのである。(この、人を喰った男はいったい何者なんだ。こんなのを見てマネろとでも言うつもりか。あの所長めっ!)と、おっさんは、空恐ろしい思いがした。
そうして、苦もなく契約を完了し、次の家へと向かっていった・・・。