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うどん三杯おかわり

ところが、残りの十日間で奇跡は起こった。
ちょうど、市場が変わって一日目に三件の契約が決まった。
 そして、二日目・三日目 三件という具合に取れはじめ、なんと十日間で十六件のオーダーがフルセットで取れてしまったのである。
 ちなみに、フルセットで三十万円もするのだ。それを一時間足らずの説明を聞いただけで決定してしまうのだから、どれほど教育に関心を持っているのかが分かる。
 おっさんの周囲の者は皆、目をまるくして驚いた。なにより、おっさん自身が信じられないといった心境であり、まるで夢でも見ているようだった。
 お客は、身をのりださんばかりに熱心に話を聞いてくれるし、説明が終わると二つ返事で買うと言ってくれるのだ。
 さも、責任者になることは、もう決められていたかのような展開になってきたのである。
 それなら、同じ市場を回っている者たちも契約数が増してきたのかといえば、結果はその逆で同僚の者たちは現地の文句ばかり言っていた。
 おっさんのお客だけが特別だと思うのは変だが、何故だか人の好い素直な人ばかりに出会ったとしか思えなかった。
 何が違っていたのか?全く分からなかった。
 強いて言うなら、無欲で現地を回っていたということくらいである。
 おっさんは売れようが売れまいが、この商品の説明を聞いてくれようとする人には一生懸命に話した。
 またそれが楽しかったし、勉強嫌いだった自分の過去の経験から、この教材の良さを実感してもいたのだ。
 月に、たったの三ページ分の基本をしっかりと理解するだけで、重要なポイントが全てつかめるというこの教材は、まさに勉強嫌いにとっての救世主なのである。
 おっさんは、つくづく自分の中学生の時にこういう教材があったらなぁ・・・ とよく思ったものだ。
 なんだか、自慢話のようになってきて申し訳ないけれども、これは事実なのである。 
 その代わり、悲惨な思いも結構してもいるのだ。
 営業という職業、特にアポなしでの飛び込み訪問の営業というのは、どうしても良い時と悪い時の波が出てくる。
 契約が取れているときは天国だが、取れなければ、そのまま地獄なのだ。
 おっさんにしても、一週間近く飯ぬきで仕事をしたことがある。
 見るに見かねて、お金を貸してやるという者もいたが、その頃のおっさんは変なところに意地っ張りであり、見栄を張るタイプの頑固者だったので、その申し出は丁重に断った。
 けれども、訪問先のお客さんから言われて、うどんをご馳走になったときは、三杯もおかわりをしてしまった。
 やはり人間というものは、食べていないと元気がなくなるものである。
 その家に入った時も、蚊の鳴くような小さな頼りない声で挨拶をし、説明をしていたようである。
 契約が決まって、契約書をカバンへと入れて帰ろうとした時に、お客が一言こういった。
 「それにしても、あんた元気がないね。ちょうど今、うまいうどんがあるから、ちょっと上がって食べて行きなよ。沢山あるから何杯おかわりしてもいいから。」と信じられないくらいの良いお父さんだった。
 そして、図々しくも三杯もおかわりをしてしまったのである。
 その時は、その人がまるで神様か仏様かと思えるほど感動し、涙が出そうだった。そのうどんの味は今でも忘れられない。