オッサンは、この親ゆずりの不器用さが、このミシン店で改善される可能性に希望をもっていたのだった。
しかし、現実はそれほど甘くはなかった。
ミシンというものは、たとえ古いものであっても複雑な精密機械なのである。
たてに上下する上糸の針の軌道が一ミリ以上ずれると、用をなさないのだ。
下糸のボビンケースから出てくる糸の引っ張り具合が強すぎると糸は切れるし、弱いと縫えない。極端な言い方をすると、針が少しでも曲がっていると、あたりまえに働いてはくれないのである。
最も難しいのは、回転を上下のピストン運動に変換するギアや歯車の調整だった。
ジイサンは、ベテランの技術者だから、何でもないようにやっていたが、オッサンにとってこれは、まるで、ペンギンに階段を登れと言っているようなものだった。
その結果、何台かのミシンは、おしゃかとなり、運がよかったミシンはジイサンの手で蘇った。
世話をかけたから言うのではないが、このジイサンはミシンにかけては天才であった。
オッサンも、一生懸命に店の跡を継ぐべく精進したのだが、その努力もむなしく、三年後に店をやめることにした。
己の不器用さをどうにもならぬと認めることも嫌だし、なにより、あきらめるということが大嫌いなオッサンではあったが、あまりにジイサンの足を引っ張り、負担をかけすぎた。さすがにジイサンも、すんなりと同意してくれた。
「いや、よく頑張った。だが、向き不向きは、やっぱりあるんだろうなぁ・・・」と、妙に晴れやかな顔をして言ったものである。
一方で、あれだけ口やかましかったオバサンは、もう少し長い目で見てやれと、ジイサンの尻をたたき、オッサンにも、もっと頑張れと、ずいぶん励ましてくれた。
だが、オッサンの決意が固いのを見てとると、この店をやめても、ときどきは遊びに出てこいと言った。このオバサンが言うのには、「あんたがやめるのは、別に人間関係が悪くなってのことじゃない。こうやって何かの縁があって知り合いになったのだから、時間のあるときにでも寄って世間話やら、近況報告にでもやって来い」と言うのである。
そして、それを約束しろと言うのである。
オッサンは約束した。事実、この後、五年間くらいは、時々、ジイサンやオバサンの顔を見に店に行って、今は何をやっているだの、こんなことに苦労しているだのと、愚にも付かない、この二人にとっては、どうでもいいようなことを話しに店に寄っては、お茶を御馳走になっては帰ってきたものだ。
と言うのも、この店は居心地がいいのである。いつ訪ねていっても、二人ともニコニコと笑って「よく来た、よく来た」と喜んでくれるのである。
実際、この店には、オッサン以外にも、いろんな人がお茶を飲みに来ていた。
ミシンの修理や、購入をしに来るお客さんはもとより、全く、何の用事もなく、近くまで来たから、ちょっと寄ってみたという人たちが、入れ替わりたち替わりに店に遊びに来るのだ。
こういうところが、この店の売りになっていたのである。古く、薄よごれた、それこそ台風でもやって来たら、あとかたもなく消え去ってしまいそうな店だったが、何の気兼ねもなく立寄れる場所。
それが、ジイサンの人気を拡大させたのであろう。ミシン修理の名人として、何度か新聞社やテレビ局から取材を受けたこともあったのだと、ジイサンは、自慢げに、そのときの新聞やら、テレビ局のディレクターとかの名刺を見せていた。
ジイサンにしても、オバサンにしても、とにかく話し好きな人達であり、こちらから帰りを切り出さないと、いつまででも話し続けているような感じであった。