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首と足首をベットに固定・・・

 つまり、戦後のどさくさに無茶苦茶をやってきた文字通りの猛者なのである。
 今でも昔の船会社の同僚の人などは、「あんたのオヤッサンは強かったよ。一緒にいたら、どこへ遊びに出ても恐くなかった。ヤクザなんてヒヨコみたいなもんさ、昔のマドロスってのは気が荒くてケンカっぱやいから、ヤクザでも恐がったもんだ。その中でもとびぬけて強かったからな、あの人は」となつかしそうに話すのだが、実際に体格はプロレスラーそのもので、やたらに握力と腕力が強かった。
 細い鉄管(水道管)などをくの字に曲げたり、手の親指だけを使った腕立て伏せなど百回くらいは平気でやっていた。
 片手だけのリンゴ潰しなどは、わけもないんだぞと言わぬばかりに、何度も目の前で見せられたものだ。
 そんなバケモノが体調を崩し、あげくに倒れて病院に運ばれたというのだ。
 そんなことがオッサンには信じられるわけがない。
 きっとなにかの間違えだろう。名前が似ている他の人間のことではないのか?と、考えていたオッサンの頭の中の記憶の隅っこに数種類の錠剤を飲んでいたオヤジの姿が浮かんだ。
 それは、オッサンがまだ、幼稚園に通っていたころのぼんやりとした記憶なのだが、確かに見たことのある場面にちがいなかった。
 外見は、筋肉の塊で、殺しても生き返ってきそうに思えたが、内側はボロボロに弱り切っていたのかもしれない。
 朝方の四時近くに国鉄八王子駅に着いたオッサンは、次の始発の六時半まで待合室で仮眠をとった。
 それから列車を乗り継ぎ、横浜へ着いたのは朝の八時頃である。
 病院へとタクシーを走らせ、受付をすませ病室へ行ってみると、タオルのようなもので手首と足首をベットに固定され、眠っているオヤジがいた。
 人違いではなかった。
 間違いなく、オッサンの父親である。
 しばらく、オッサンは呆然とオヤジの寝顔を見ていたが、起きるまでそっとしといてやろうと思い、誰もいない受付前の待合席にもどり、時間を潰した。
 そうしているうちに、おふくろ(オッサンの母親)も到着し、二人して、ああでもない、こうでもないと心配していると、看護師さんがやって来て、担当医がいるから、面会の前に話しを聞いておいたほうがいいですよ。と言うので案内してもらった。
 担当医の話によると、オヤジは腎臓と肝臓が弱っているとのことで、こういう患者の場合、一時的に脳への神経伝達が阻害され、精神錯乱を起こして暴れることもあるので予防のために手足をベットに固定しているということだった。
 いますぐに生命がどうのと言うわけではないのでその点は、安心してもらってもよいという説明にオッサンとおふくろは胸をなでおろした。
 食事も、今日はとらせず点滴だけで栄養を取らせ、明日から流動食を少しづつとらせるとのことで、面会の時は、手足の拘束はとってもらってよいと言った。
 (オヤジが暴れ出したとしたら、こんな拘束は何の意味もない)と内心では思いつつオッサンは感謝の意を述べて、おふくろと二人面会へとむかった。
 今度はオヤジは目を覚ましていて、オッサンの顔を見るなり、「なんだ、お前まで来たのか。おおげさだな」と、バツの悪そうな顔をした。
 息子に自分の弱いところを見られたくはないという心理が、まだそこにははっきりと見てとれた。

オッサンの父親が・・・

 この北野が主任へと昇格し、自分の係を持ち、オッサン、小林係長、磯部主任という四人が新松本支社をささえる四本柱となっていったのである。
 ところが、『好事魔多し』とはよく言ったもので、良い事ばかりは続かない。
 あれはちょうど、始めて企画された、新松本支社と長野支社との合同での慰安旅行の前日のことだった。
 夜の八時頃に会社へと結果報告(各責任者は必ず所長へと、その日のオーダー数を報告し、指示をあおぐことになっていた)を入れたオッサンには、考えられぬ報告が待っていたのである。
 オッサンの父親が、神奈川県の鶴見港での仕事中に体調をこわして倒れ、急遽、横浜の病院へとかつぎこまれたというのだ。
 オッサンはあせった。というのも、その日は一件の契約もとれておらず、このまま帰れもしないという状況だったのだ。
 だが、田川所長は電話口で怒鳴った。
 「そんな事気にしてる場合か。お前の親だろ、余計なこと考えずすぐに帰って来い。所長命令だっ!わかったな、これから急いでも最終に乗れるかどうかだぞ。急げ」
 「はいっ、わかりました。ありがとうございます」
 係員たちにも申し訳ないと思いつつ事情を話し、オッサンは車を走らせ帰路についた。
 急いで仕事を済ませ、松本駅へと向かったが、所長の言った通り、ギリギリで最終の夜行列車に乗れたのだった。
 (それにしても、あのオヤジが倒れたとは・・・)
 疲れているはずのオッサンだったが、どういうわけか列車の中では一睡もできず、頭の中は父親の事でいっぱい、いっぱいだった。
 誰もが、父親に対して強く、たくましく、頼れる存在であってほしいと望むものだろうが、オッサンにとって、父親のイメージは、一口で言うとバケモノだった。殺しても死なないという感じである。
 戦後すぐに実家を飛び出し、十六歳で船乗りになったオッサンの父親は、戦争が終わる直前まで、自力で体を鍛え、予科練(少年飛行予備部隊)への入隊志願に燃えたバリバリの帝国日本軍教育の申し子だったのである。
 それが、あっけなく終戦を迎え、ガラガラと音をたてるがごとく崩れさった戦時教育は、米国へと押しつけられた民主教育へと変化する。しかるに、人の考え方というものは、そう簡単に切り換えがきかない。
 あたらしく英語が教育科目として導入されたのは、オヤジが中学三年(その当時、尋常中学は五年生だったらしい)の秋頃からだそうである。
 これがオヤジには面白くなかった。
 『何が悲しくて、敵国の言葉なぞ学ばなけりゃならんのだっ!』と、今風に言うならば、このときすでに、キレていたのである。
 ある日、ついに英語の教師をなぐり倒して気絶させ、学校から家に帰ると、現金やら金になりそうな貴重品をカキ集め、知らぬ顔をして家出をしたという。
 もともと、母親とは三歳位で死に別れ、父親(つまり、オッサンにとっての祖父である)とも、小学六年生の時に死別していて、それからずっと父方の伯母に授けられていたのだそうで未練もなにもなかったという。
 そのときのオヤジにしてみれば、伯母は父親(祖父は金貸し業をやっていて資産家だったらしい)の莫大な財産を養育費という名目で、くすねとっているクソババァでしかなかったのだそうだ。
 そうして、十六歳で青森県の津軽から乗船した。つまり貨物船の船員となったのである。もちろん年令などはごまかしていたはずだ。
 オヤジによれば、戦後すぐの船乗りは、仕事の出来よりも、まずはケンカが強くなければナメられたそうで、ちょっとした一対一の小競り合いから、何十人単位での違った貨物船の船員たちとのケンカまで、毎日のようにあったという。

北野 主任三級へと昇格

 オッサンの北野に対する不安は、取り越し苦労に終わった。
 彼は、着実にオーダーを重ねてゆき、田川所長から責任者候補に認められ、三ヶ月の安定した営業成績を上げて、主任三級へと昇格した。
 北野によれば、オッサンの逆同行によってコツをつかんだそうである。
 何が良かったのかと聞くと、説明はそれほど上手だとは思えなかったが、自分とは決定的に違ったものがありました。と言うので、だから、それは何だと問い返すと、しばらく困ったような顔をして考えこんでいたが、なんと言ったらいいかわからないが、熱意というか気合いというか、そんなものを感じたのだと言う。そして、何がそんなに熱意を生むか考えた時に思いついたのが、お客とのやり取りから感じた必要性の実感なのだそうだ。
 はじめ、オッサンは何を言っているのかわからなかったのだが、つまりオッサンは、お客の子供の状況をよく聞きだしたあとで、その子供に、この商品がどうして、どのように役に立つのかを強調して話していたそうである。
 北野は話を聞きながら、おそらくオッサン自身も中学生の時には勉強がわからず苦労したのだろう。だから、これだけ熱くなって話ができるのだと解釈し、自分も学校の勉強がわからずに困っている子供の気持ちを思いながら説明をしてみようと考え実践してみると、それほど苦労することもなく契約してもらえるようになったと言うのである。
 オッサンは北野の観察力に感心した。
 ほとんど当たっている。
 事実、中学生当時、勉強嫌いで出来の悪かったオッサンは、自分の中学時代に、こんな教材があったら、どれだけ助かっただろうと想いながら営業をしていたのである。
 それに、お客様は、単に営業マンの話す言葉だけを聞いて判断を下すのではない。言葉以外の全ての情報を意識的にとらえている。
 だから、言葉での説明がどれほど上手く出来たとしても、信じてもらえなければ、契約の印は押してくれない。
 北野は数回の逆同行で、それを理解していた。それに、彼は、自己管理が上手くできていたのだろうと思う。
 訪問販売の営業というのは、現地へと車から降ろされてから、四、五時間はまったく自分一人きりの自由時間である。
 何をしていても、見つからなければわからない。
 極端なことを言えば、一件の家にも入らず、パチンコ屋や喫茶店で時間を潰したとしても、決められた時間に集合場所へもどってきて、適当に話を作り、嘘をついていれば、誰も何もわからないから何も文句を言われることはない。
 たとえば、手痛いアプローチアウト(お客の強い拒否)を受け、その日一日仕事にならないほど落ちこんでしまうこともある。
 そんな時に、気持ちを上手く切り換えて、次の家へと、何事もなかったかのように飛び込めるか否か、これは、本人の精神力にかかっている。
 こういった事を自分で管理できなければ、安定した営業成績など上げられるはずもなく、もちろん、責任者などにはなれない。
 とくに、セールスマンにだまされた経験のあるお客様などは、実際に電話をかけて警察を呼び、泥棒や押売りでもしたかのように営業マンを罵倒することも、なんらめずらしいことではない。
 たとえ、警官が来て、お客様にあることないこと言われたとしても、あたりまえの営業をやっていれば、事情説明に少し時間をとられるだけの話なのだが、こんなことぐらいでもショックを受けてしまい仕事が嫌になって退社する者もいる。
 訪問営業は、肉体以上に精神的な重労働なのである。

北野という男

 こうして、小林係長と磯部主任は、しだいに親しくなっていった。
 あとで磯部主任から聞いたところによると、小林係長宅へ招待されたのはオッサンより前には誰もいなかったというのだから信じられなかった。
 そしてもう一人、オッサンの係から責任者となった北野という男がいる。
 こいつがまた、すこぶる変わった男だった。
 オッサンも他人の事は、あんまり言えたものではないのだが、偏屈という言葉が、これほど似合う人間もいないだろう。
 身長は百八十センチで体重六十五キロという、やたらにヒョロヒョロとしたこの男は、セールスマンとは思えぬほど無口であり、気に入らぬ者とは挨拶すらかわさない頑固者であった。
 最初は、オッサンとも一言も口をきかなかった。
 オッサンの逆同行(営業者の後で、その仕事を観察すること)をして、契約を取る場面を見たあとに、やっと一言。「気持ちが大事だってことですかね」と感心したようにポツリとつぶやいたのが最初のセリフだった。
 これに加えて、人見知りで無愛想ときてるから、まちがっても営業に向いているとは言えない。
 オッサンも北野の逆同行をしたが、とにかくニコリとも笑わない。必要なことだけ無感情に話す。まるで、ロボットがしゃべっているような無機質的な感じがしたものである。
 だが頭は良いのである。大事なポイントをちゃんとつかんで、オッサンとの違いをとらえていた。
 どうしたものかとオッサンは悩んだ。
 変わってはいるが、会社を辞めることもせず、頑張ろうという姿勢が見える者を、見捨てるわけにはいかない。
 あとの二人は、なかなか要領がよく、それほど心配はしなかったのだが、この北野に関しては、オッサンも多少気を揉んだ。
 だが、北野とオッサンには共通点らしきものが一つあった。
 大学時代に北野はボクシングジムに通っていたそうである。
 オッサンも大学生の頃、アルバイトをしながら少ない稼ぎを工面して、フルコンタクト(直接打撃制)の空手道場に通っていたことがあった。
 こういった人間は、向上心が強い。弱い自分を少しでも強くしたいという目標をもって入門する者がほとんどである。
 こういったところにプラスの要素はあったのだ。
 いくら問題児とは言っても、北野だけ特別扱いするわけにはいかない。
 オッサンは、係員三人とも同じように逆同行をさせ、また同じように彼らの営業活動を見て、必要だと思うアドバイスを与えた。
 面白いもので、彼らが一番興味をもって食いついてきたのは、オッサンの失敗談である。
 誰でもそうだろうが、他人の自慢話などは頼まれても聞く気にはならないが、失敗話となれば信じられぬほどの注意力を発揮する。他人の不幸は密の味とは、よく言ったものである。
 ゲラゲラと笑われながらも、オッサンはどうして、こんなドジな男が責任者になれたのかを、しっかりと伝えた。
 「一番の極め手は思いこみだ。俺は責任者になれる。いや、絶対になってみせる。」
 事実、あの最終月、半月間の無契約状態のときには、誰もオッサンが目標を達成できるとは思ってはいなかったのである。
 あたりまえすぎる話だが、最後まで自分を信じてくれるのは自分しかいないのだ。
 逆にどれほど他人が信じてくれたとしても、自分で自分を信じきれなければ、ものにはならに。

磯部という人物

 今でも、小林係長宅はオッサンの理想の家庭像として残っている。
 しかし、人間関係というものは不思議なもので、オッサンとはまるで旧知の友人のように何でも話す小林係長が、磯部主任(中学課二係の責任者)とは、仲が悪いとまではいかないものの、それほど親しい付き合いをしてはいなかった。
 それというのも、磯部主任は前の所長(ヘッドハンティングにより他社へ移った人物)と親交が深く、小林係長としては、いつまた前所長のもとえ行くかわからぬという不信感をぬぐえなかったようである。
 以前の松本支社というのは、所長派と小林係長派で対立していた部分があったらしい。
 つまり、この磯部主任という人は、完全な所長派だったのだ。
 けれども、その誤解は次第になくなっていった。
 偶然にも、オッサンとは同じ年のこの磯部という人物は、それほど悪い人間ではなかったのだ。
 仕事では、ライバル関係にあったが、オッサンと考え方が似ており、会社への貴属意識が高く、義理人情を重んじるタイプの男だったのである。
 その上に、オッサンとは似ても似つかぬハンサムボーイで独身ときている。
 であるから、女性の社員にはやたらに意識されており、実際モテていた。
 たしか事務の女子社員とも付き合っているとかどうとかと言う噂も聞いたことがあるが、オッサンは知らないフリをしていた。そんな事は、プライベートなことであり、仕事に支障をきたさない限り、余計な詮索である。
 妙にオッサンとは馬が合い、よく飲みにも行った。
 小林係長も、オッサンが加わると何のこだわりもなく、参加していたし、行きつけの店にも招待してくれたものである。
 何度となく、三人で飲み会をしているうちに磯部主任も小林係長も打ち解けた関係となり、立ち入った細かい話もするようになった。
 たとえば、前所長からの誘いはあるか。だの、もし移る気があるなら知らせてくれ。だの、小林係長は、聞きにくい事を何のこだわりもなく尋ねるようになった。
 つまり、オッサンとまったく同じスタンスで会話をするようになっていったのだ。
 磯部主任の方も、これまた正直な男で、前所長からの誘いは度々あり、今でも電話でやり取りをすることもあると告白していた。
 「あの人は、あの人だし、俺は俺ですから。申し訳ありませんが、この会社を辞めるつもりは、これっぱかしもありません」と冗談めかして答えていた。
 人間というのはわからないものである。ちょっとしたキッカケで、疎遠になったり、近しくなったりするものなのだ。
 前にも言ったとおり、オッサンはあんまり他人のプライベートに関心をもたない質の男だが、小林係長は逆で、親しくなると、何でも知りたくなるようで、根掘り葉掘りとプライベートな事を、好奇心まるだしで、ズケズケと細かくきいていた。
 これについても、酒が入っているせいか、嫌がりもせずスラスラと磯部主任は話した。
 オッサンは聞く気もなしにいたのだが、すぐ横にいるのだから、二人の声は嫌でも耳に入る。
 驚いたのは、半年程前には、五人の女性と同時に付き合っていたとのことだった。
 さすがに今は三人ですと言っていたが、一人の女性にさえ振り回され、なんとも言えず疲労感を覚えたことのあるオッサンとしては、うらやましいと思う反面、まるで地獄を見るような気がしたものだ。