この北野が主任へと昇格し、自分の係を持ち、オッサン、小林係長、磯部主任という四人が新松本支社をささえる四本柱となっていったのである。
ところが、『好事魔多し』とはよく言ったもので、良い事ばかりは続かない。
あれはちょうど、始めて企画された、新松本支社と長野支社との合同での慰安旅行の前日のことだった。
夜の八時頃に会社へと結果報告(各責任者は必ず所長へと、その日のオーダー数を報告し、指示をあおぐことになっていた)を入れたオッサンには、考えられぬ報告が待っていたのである。
オッサンの父親が、神奈川県の鶴見港での仕事中に体調をこわして倒れ、急遽、横浜の病院へとかつぎこまれたというのだ。
オッサンはあせった。というのも、その日は一件の契約もとれておらず、このまま帰れもしないという状況だったのだ。
だが、田川所長は電話口で怒鳴った。
「そんな事気にしてる場合か。お前の親だろ、余計なこと考えずすぐに帰って来い。所長命令だっ!わかったな、これから急いでも最終に乗れるかどうかだぞ。急げ」
「はいっ、わかりました。ありがとうございます」
係員たちにも申し訳ないと思いつつ事情を話し、オッサンは車を走らせ帰路についた。
急いで仕事を済ませ、松本駅へと向かったが、所長の言った通り、ギリギリで最終の夜行列車に乗れたのだった。
(それにしても、あのオヤジが倒れたとは・・・)
疲れているはずのオッサンだったが、どういうわけか列車の中では一睡もできず、頭の中は父親の事でいっぱい、いっぱいだった。
誰もが、父親に対して強く、たくましく、頼れる存在であってほしいと望むものだろうが、オッサンにとって、父親のイメージは、一口で言うとバケモノだった。殺しても死なないという感じである。
戦後すぐに実家を飛び出し、十六歳で船乗りになったオッサンの父親は、戦争が終わる直前まで、自力で体を鍛え、予科練(少年飛行予備部隊)への入隊志願に燃えたバリバリの帝国日本軍教育の申し子だったのである。
それが、あっけなく終戦を迎え、ガラガラと音をたてるがごとく崩れさった戦時教育は、米国へと押しつけられた民主教育へと変化する。しかるに、人の考え方というものは、そう簡単に切り換えがきかない。
あたらしく英語が教育科目として導入されたのは、オヤジが中学三年(その当時、尋常中学は五年生だったらしい)の秋頃からだそうである。
これがオヤジには面白くなかった。
『何が悲しくて、敵国の言葉なぞ学ばなけりゃならんのだっ!』と、今風に言うならば、このときすでに、キレていたのである。
ある日、ついに英語の教師をなぐり倒して気絶させ、学校から家に帰ると、現金やら金になりそうな貴重品をカキ集め、知らぬ顔をして家出をしたという。
もともと、母親とは三歳位で死に別れ、父親(つまり、オッサンにとっての祖父である)とも、小学六年生の時に死別していて、それからずっと父方の伯母に授けられていたのだそうで未練もなにもなかったという。
そのときのオヤジにしてみれば、伯母は父親(祖父は金貸し業をやっていて資産家だったらしい)の莫大な財産を養育費という名目で、くすねとっているクソババァでしかなかったのだそうだ。
そうして、十六歳で青森県の津軽から乗船した。つまり貨物船の船員となったのである。もちろん年令などはごまかしていたはずだ。
オヤジによれば、戦後すぐの船乗りは、仕事の出来よりも、まずはケンカが強くなければナメられたそうで、ちょっとした一対一の小競り合いから、何十人単位での違った貨物船の船員たちとのケンカまで、毎日のようにあったという。