どういう理由でなのか、はっきりとわからないのであるが、九州内で宮崎県と長崎県だけは支社が根付かないのだ。
宮崎は、地元の企業が強く、他県からの企業が入りにくいというのは知られていたが、長崎の場合には、はっきりとした根拠は何もない。全国的に見て低所得県であり、あまり教育にお金を使いたがらない親が多いのかと考えられぬこともないが、一番の低所得県である沖縄では、しっかりと支社が根付いているのである。だからこれは理由にはならない。そもそも不況になると母親は、子供の将来に期待をかけ、教育に関しての費用をおしまなくなるというのが定説となっているのである。
それなら社員に問題があるのか?というと、そうでもないのだ。
オッサンが入社したときの長崎支社の所長にしても、全国で五指に入るトップセールスマンだった男であり、福岡支社でその人ありと言われるほど、頭がキレると評判の新所長だったのである。
しかしながら、一年としないうちに長崎支社は閉鎖されている。
つまり、わけがわからぬまま、長崎支社は再開と閉鎖を、これまでに何度となくくり返してきているのである。
風前の灯火とは、まさにこのことであり、この時点で長崎には、オッサンの帰れる支社はないのである。
かといって、本部長へと直々にお伺いを立ててくれた田川所長へと、すぐに辞表を出すのも、あまりに忍びない。
とりあえず、オッサンは本部長からの返事を待つことにした。
そして半月後、その返事は来た。
それによると、「大変申し訳ないことであるが、閉鎖している長崎支社を再開させる目処は、今のところついていない。けれども会社としては、一県に一支社という目標をかかげて頑張っているから、必ずやまた長崎支社を立ち上げる。出来るなら、所長として帰れるよう、もう少し頑張っていて欲しい」という内容であった。
会社のトップである本部会から、このような返事をもらったてまえ、オッサンは嫌でも辞めるわけにはいかなくなった。
残された道はただ一つ、所長として長崎へともどれるように奮闘努力するしかないのだ。
しかるに、オッサンはまだ係長になったばかりであり、所長として支社をまかせられるには、最低でも係長一級か、あるいは、その上の課長代理にでもならなければ無理な相談なのである。
所長としてといわれても、気の遠くなるような話なのであり、一年や二年で実現できる保証は何もない。
だが、会社を辞めて、長崎へ帰ったとしてもオヤジは喜ぶはずもない。それどころか、情けないやつだと罵倒されかねない。なにより、それが自分の病気が要因のひとつだと知ったら、それこそ怒りをとおりこして落胆することだろう。
無い知恵をふりしぼって、そう考えたオッサンは決心した。
ここは、ひとつ頑張ってみよう。
後二、三年でオヤジが死ぬわけでもないし、もしかすると、もっと早くに長崎支社が再開されるかもしれない。
とにかく、やるしかないのだ。
所長として長崎へ帰れたら、胸を張ってオヤジの前で自慢話の一つでもできる。
今はまだ社会人に毛の生えた程度の青二才だが、これからさらに奮起して、オヤジでさえ一目置くほどの男になってやるのだ。
こうして希望を新たに再出発をしたオッサンだったが、この一年半後に、オッサンの夢ははかなく消え去ることになる。