カウンターの向うから、大きなグラスへとビールを注ぎつつ二人のやりとりを聞いていたマスターは、そのマーチン(ギター)も三十万円くらいだと、おっさんの抱えていたギターを指さしました。
「ほう、そうですか。これが・・・」と、おっさんは精一杯の冷静さを装っておりましたが、そのじつ内心では(そんな高価なものを、涼しい顔をして他人に使わすなっ!)と、小心なゆえのストレスを感じ、手のひらには、じっとりと汗をかきながら、おそるおそる持っていたギターをもとにもどそうとしました。すると、おっさんの苦労も知らずに、青年ミュージシャンは、そのマーチンを取り上げて鳴らし、「ふむ、ふむ。」と感心しております。
「それ使って何かやってみなよ。」とマスターが言ったので青年は、マーチンを握ったまま、わざわざステージの方へ行ってオリジナル曲を弾き語り始めました。
せっかくだからと、マスターがマイクの電源を入れ、ミキサーの調整をしますと、さすがに上手い。おっさんもマスターも手拍子をしながら、大喜びでしばらく聞きほれていましたが、四・五曲歌うと、青年はひと休みとばかりカウンターへともどってきて、今度は三人で酒盛りがはじまりました。
「いやぁ、まったくいい感じです。」と青年はとても喜んでいるし、マスターも、しきりに青年ミュージシャンの歌を称賛しております。そうして二人して、よくぞ紹介してくれましたとしきりにおっさんに感謝するありさまです。
単純なおっさんとしては、すっかりいい気持ちになって酔っぱらっておりました。
ところが、好事魔多し。とはよく言ったもので、今度は、おっさんにも何かやれとマスターが言いだしました。
「いや、いや、あんな名演奏のあとにやれと言われても困ります」と、おっさんは青年ミュージシャンにかこつけて断ろうとしましたが、律儀な青年ミュージシャンは、そう言わずにぜひ一曲とすすめます。
普段なら、まちがってもやるはずのないおっさんでありますが、なにしろ酒が入って気が大きくなっております。そこへもってきて、マスターと青年ミュージシャンが、二人がかりでおっさんを褒めそやすものですから、おっさんお頭の中は春のお花畑状態となっておりました。
そんなに言うならと、おっさんは、あろうことか、エリック・クラプトンのティアーズインヘブンという曲(これは、おっさんが昔、ギターの上手い友達に、指弾きのさまになる曲ということで、手とり足とり教えてもらった、一つ覚えの曲であります。)を、ひとくさり弾き語りました。
どうだと、弾き終わったとき、おっさんには、どういうわけか嫌な予感がしました。
「なに、クラプトンできるの?」と言ったマスターの弾んだ声と目の輝きが、どうも気になったのです。
おっさんは、(できるの?と聞くな。今やったばかりではないかっ!)と強気に開き直り、(やれというからやったのだ。下手なのは、俺が一番わかっとるわい。文句があるなら、聞いてやるから、腹いっぱい言ってみろっ!)と、気負いすぎて、気絶しそうになっておりましたが、マスターは喜々として、後に二十枚ほど積んであったCDをカウンターへとのせました。
驚いたことに、これが全部クラプトンなのであります。
おっさんは、先刻の自分の不安が何であったのかを、このとき悟りました。