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力仕事から介助員へ

 いまさら言うこともないだろうが、オッサンは、この水道工事でも数々の失敗をした。
 ねじ切りといって鉄管にねじ山をつくるため機械を使って削る作業や穴掘りをして水道管を埋めるのだが、あんまり深く掘りすぎて怒鳴られたこともある。勾配といって、水がちゃんと流れるように、一定の角度をつけて溝を掘ってゆくのだが、これなども、なかなか上手くいかなかった。
 当時は、オッサンも二十代の若輩者で、体力や気力は充分だったが、不器用さはどうにもならない。
 職人さん達にもだいぶ迷惑をかけたことだろう。
 だが、職人の中には、溝をこう掘れと言ったきり、細かい指示は何もせず、あるていどの作業が終わるまで車の中で休んでいる者も多かったのだ。
 仕事の右も左もわからない新人は、力仕事くらいしかできないからと、それくらいは一人でやらせようと言うつもりなのだろうが、少し無責任だとオッサンは感じた。
 あるときなどは、職人が三人もいて、ほとんど作業もせず、バカ話をしながら、オッサンが一人で、五・六十キロほどもある岩みたいに重い石を除去するのを見ていたが、運び終わって帰ってくると、「ほう、たいしたもんじゃないか」と、三人とも手を叩いて、うすら笑いを浮かべていた。
 さすがのオッサンもムカッとして(こいつら皆、ぶん殴ってやろうか)などと一瞬思ったが、なんとか我慢したということがあった。
 事実、他の現場では、職人へと道具を投げつけ途中で仕事を放棄して会社をそのまま辞めた若者や、職人と取っ組み合いのケンカをした者もいた。
 これは、オッサン以外の若者達の話しだが、彼らの気持ちはわかる気がした。
 一つまちがえば、オッサンにも、そうなる可能性があったのだ。
 しかし、雇われの身である以上は、仕事の進行に支障をきたすような事はすべきではないと思い、なんとか、やたらに疲れる一年を過ごし、つつがなく退社させていただいた。
 やれやれと思いながら次に見つけたのは、特別養護老人ホームの介助員である。
 ここは、普通の老人ホームとはちがい、身体に障害をもっている人の入る施設で、ほとんどが車椅子の人たちの世話をするのだ。
 その他は、寝たきりの老人が重度の痴呆症を患っている老人である。
 これがまた、大変な仕事だった。
 何がといって、五十数人の老人達を、朝、昼、晩と、毎日三回、必ず全員を食堂へ揃えて食事をさせるのだが、これを五、六人の職員が二十分以内でやってのけなければならない。一人ずつ、老人が恐がらないよう、丁寧にやさしく、ベットから抱き起こし車椅子へと乗せて連れていくのである。
 楽な仕事というものは無いんだと、オッサンはつくづく実感した。
 だが、ここでオッサンは人間の不思議さを勉強させられた。
 今でも鮮明に記憶に残っているのは、一人の痴呆の老人女性である。
 こういう老人は、常に目を配っていないと自由に歩き回れるので、注意が必要なのだが、この人の口グセは、「あんたも赤紙もろうたね」という問いかけだった。
 赤紙というのは、戦時中の召集令状のことで、この人は戦争のために軍隊へと入隊させられた長男を亡くしていたのである。
 何もわからなくなっている痴呆老人が、決してその事は忘れられないのだ。
 「戦争に行ったら、逃げてでんよかけん、必ず生きて帰ってこんばよ」と、涙を浮かべて語るのである。「あの子は死んでしもうた・・・」と、かなしく消え入りそうな小さな声で話す。その人の姿は、まぎれもない母親そのものだった。