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長崎支社 所長見習

 皮肉な話だが、オッサンが長崎支社へと、見習い所長として帰って来たのは、父の葬儀が終わってからほんの数ヶ月後のことである。
 オヤジが亡くなってしまったわけだから、結局のところ男同士の約束は守られなかったのだ。
 オッサンとしては単純に喜べる話でもない。できることなら、見習いなどではなく、完全に所長として帰って来たかった。
 だが、せっかくの本部長(実質的に社長である)の好意を無視するわけにもいかない。
 会社としては、できるだけ急いで対処してくれた証である。
 それに、「夫婦の一方に先立たれると、残った一方も元気を失い、それほど長生きするものではない」という言葉を、オッサンは何処で聞いたものかはっきりとは分からないが、なにかのおりに耳に入れ、このとき、気にしていたのである。
 むろん、二十数年後の今でさえオッサンの母親は元気に、しっかりと生きているので、これはまったくの取り越し苦労だったのだが・・・。
 オッサンは長崎へと帰ることにした。
 田川所長は喜んでくれたが、小林係長などは、「そりゃ困る、困る」としきりにくり返し、北野などは、「唯一の自分の理解者がいなくなる」などと、大げさなことを言っていた。
 けれども最終的には納得し、ささやかながら、送別会をひらいてくれた。
 磯部主任などは、「長崎へ行っても、営業成績は、しっかりとチェックさせてもらいますから」と、ライバルとしてこれ以上はないほどの、励ましの言葉をくれたものである。
 そして、いよいよ長崎へと帰ってきたオッサンを待っていたのは、ベテランの事務員二人である。
 一人は女性で、オッサンと同じ年令であり、もう一人は、五十歳前後の男性である。
 (コイツが所長か?)と、内心で考えたオッサンだったが、この人の役職はどういうわけでか、主任一級であり、所長というわけではなかった。
 しばらくして、わかったことだが、この人は、以前、この会社で所長をしたことがあったが、一度退社していたのである。
 この他には、幼児課と小学課の責任者がいて、二人とも主任三級だった。
 こうしてみると、オッサンは係長一級であり、やはり、この支社の総責任者ということになる。
 どういうことなのかと簡単に言うと、この長崎支社は幼児課、小学課、中学課というパートに分かれるが、各一係ずつしかなく、それぞれが責任者一人に新人が二名付くという形なのである。
 そして、もちろん中学課の責任者はオッサンであり、この支社の売上げの責任もまかせられるのだ。
 ようするに、オッサンも係をもち、現地を回って係員とともに営業成績を上げるかたわら、所長としての管理職の勉強もせよと、こういうことだったのだ。
 そのために、わざわざ、所長経験者をサブに付け、所長業務の大半を代わりにやってもらうのである。
 けれども、支社の利益の責任は、全てオッサンの肩にかかってくる。
 こうして、なんとも急ごしらえの新長崎支社は、それでもなんとかスタートを切った。
 まず、初日から一週間は、徹底したロールプレイと、市場地図の作製準備である。
 新入社員といっても、すでに、三泊四日の研修(この間、ほとんど旅館へと缶詰状態となり一歩も外へは出られない)を終え、話す内容は覚えてきている。仕事内容も頭に入っているはずである。
 しかるに、お客様との出会いは一期一会であり、一瞬の勝負なのだ。
 研修で声がかすれる程やってきたロールプレイを、今度はさらに嫌になるほど繰りかえさせるのだ。

残酷なセリフ

 オッサンが名古屋駅に到着したのは午前四時頃である。
 しかし、そこからタクシーを飛ばして名古屋空港へ向かったところで飛行機の始発は午前七時以降である。
 もちろん空港も開いてはいない。
 まして、名古屋から長崎までの直通の便となると午前九時半の便が最も早い。これに乗れたら、長崎着が午前十一時だ。午前九時発の福岡行きもあったが、これだと乗り換えなければならなくなる。福岡からだと、飛行機でだろうと列車だろうと、直通の長崎便よりはかなり遅くなってしまうのだ。
 あわてて家を出てきたオッサンであったが、運よく名古屋駅の待合室に置かれていた時刻表でこれらのことを調べた。
 一刻も早く長崎へと帰りたい気持ちは募るものの、しかたがない。数時間をこの待合室でつぶし、空港の開く時間を見はからってタクシーを飛ばし、長崎直行の便の予約をとる。それが最善の方法なのである。
 イライラしながら駅の時計をにらみつけ、オッサンは時を過ごした。
 まだ薄暗い空港のカウンターで、長崎行きの飛行機予約をした。幸いにも旅行シーズンをわずかにずれていたからか、空席にはまだ充分に余裕があった。
 予定通り、午前十一時に長崎空港へ到着したオッサンは、直ぐに長崎市内へと向かうバス乗り場へと走り、バスに飛び乗り、なんとか間に合ってくれと、祈るような気持ちで大村から長崎市内への三十分間を過ごした。
 このときオッサンは、まさか父親が、すでに亡くなっているなどとは思ってもいなかったので、浦上で下車すると、脇目もふらず一目散にオヤジが入院しているはずである原爆病院へと急ぎ走った。
 そして、息急ぎ切って向かった病院の受付で知らされた事実に、オッサンはしばらく呆けたように頭の中が真っ白になった。
 そして、病院で教えてもらった葬儀場で冷たくなったオヤジと、やっと対面したのである。
 女々しいようだが、病院で死亡したと聞かされても、まだオッサンの頭の中のどこかに、おのオヤジが死ぬものかという思いがあった。
 だが、目の前で横たわり、死装束をつけ目を閉じているのは、まぎれもなくオヤジだった。
 親の死に目のもあえなかった・・・。
 オッサンは、父親に対して何とも言えない申し訳なさでいっぱいだった。
 そしてまだ棺へと入れられる前、肉親や親類達との最後の別れをしている最中にやって来たオッサンへと投げつけられた言葉は、「あんた何やってたのっ!ずいぶん遅かったわねっ!」という、そのときのオッサンにとって何より残酷なセリフであり、言い方であった。
 この言葉を言ったのが、母親か妹だったとしたら、オッサンもそれほどの怒りを感じたとは思わないが、これを言ったのは、あの電話口でオヤジの危篤を知らせた男の姉である。
 それまでは、あの男とはちがって、やさしい思いやりのある人だと思っていたが、この言葉を聞いた瞬間、その女性を、その場で殴り倒してやろうかと思ったほどの憤りを感じた。
 もちろん、死者の霊前をけがすことにもなるし、大人の男が女に手を上げる醜態をさらすようなマネはできるはずもないが、金輪際、この人とは親戚づきあいはしないとオッサンは決心し実行した。
 肉親の死を知らされたばかりの人間に決して言ってはならない文句をこの人は言ってしまったのである。
 あれから、二十年近くたった今でさえ、あの時の悔しさ、情けなさは残っている。
 だから、オッサンは母親の死に水だけはとってやろうと思っている。

父親が危篤だ!

 あれは真夜中近くにかかってきた突然の電話だった。
 やっとのことでオッサンは、その日の仕事を終え、自分のアパートへたどりついて、やれやれ、やっと誰にも邪魔をされない寛ぎの時間だとドアを開け、明かりをつけて、背広の上着をハンガーへ掛けようとしたとき電話のベルが鳴った。
 「もしもし、やっとつかまった。俺だっ、わかるな」
 その電話は長崎に住んでいる親戚の者からで、オッサンは声を聞いてすぐに誰なのかわかった。
 「オヤジさん危ないぞ、すぐに帰って来い」
 「えっ、どうしたんだって」
 「おまえの父親が危篤だと言ってるんだっ!早くしないと死に目にも会えないぞっ、早く帰って来いっ。自分の親なんだろうがっ!」 電話の向こうで怒鳴りつけている男は、あきらかに異常な興奮状態にあった。
 「あんたに言われるまでもないっ!オヤジが危ないのなら、これからでも飛んで帰るっ!」
 オッサンより五つばかり年上の、この親戚の男はいつも上から物を言うエラそうなところがあったが、、これまでオッサンは口答えなどしたことはなかった。
 このときは、どういうわけだか無性に腹が立ったのである。
 (肉親でもないものが、わかったような口をきくなっ!)と言いたかった。
 後で聞いた話だが、このときすでに、オヤジは亡くなっていたそうである。
 それっきり何も応えず電話は切れた。
 直ぐにオッサンは田川所長の自宅へと電話をし、夜分遅くの非礼を詫び、事情を話した。
 「よしっ!わかった。一週間やるから、しっかり見舞って、親孝行してこい」
 「ありがとうございます。これから直ぐにでます。後をよろしくお願いします」
 こうしてオッサンは最終の夜行列車で、名古屋へと向かったのである。 
 まさか父親がすでに死んでいるとも知らずに、列車の中でオッサンは、あれこれとまた、オヤジの姿を思い浮かべていた。
 オヤジが倒れたと知らせを受けて横浜の病院へ行ってから一年半ばかりが経過していた。
 オヤジが会社を辞め、原爆病院へと入院し一回目の手術をした後、オッサンは一度だけ正月に帰郷してオヤジを見舞ったことがあった。
 以前と比べ、別人のようにヤセ痩けたオヤジは、「俺が、こんなになっちまったよ」と言って、オッサンの顔を見るなり涙を見せた。
 そのときオッサンは固まった。
 あとにも先にもオヤジの涙を見たのは、そのときだけだった。
 思えばこのとき、オヤジは息子との最後の別れを予感していたのかもしれない。
 実際この後は元気そのもので、看護士の目を盗んでは点滴をはずし、腕立て伏せをしたり、洗濯場にあったポールにつかまり、懸垂をしてオッサンに見せたのだ。
 もちろんオッサンは止めたが、このくらいはなんでもないと笑いながら軽く二十回ばかりやっていた。
 それどころか、点滴をつけたまま袋を頭に乗っけて、タクシーで自宅までやって来てオッサンに説教までしたほどである。
 これは言うまでもなく、病院に無断で行ったことであり、後で担当の医者に、こっぴどく怒られたそうである。
 こんな感じだったから、オッサンはオヤジはまだまだ大丈夫だと確信していた。
 実は、オヤジはガンに蝕まれていたのだ。
 オッサンの母と妹だけは、この事実を知っていた。
 このときはまだ、オッサンとオヤジには隠しておこうと二人で相談して決めていたのだという。
 だから、オッサンは、あたりまえのように松本へ戻って仕事をしていたのである。

奮闘努力

 どういう理由でなのか、はっきりとわからないのであるが、九州内で宮崎県と長崎県だけは支社が根付かないのだ。
 宮崎は、地元の企業が強く、他県からの企業が入りにくいというのは知られていたが、長崎の場合には、はっきりとした根拠は何もない。全国的に見て低所得県であり、あまり教育にお金を使いたがらない親が多いのかと考えられぬこともないが、一番の低所得県である沖縄では、しっかりと支社が根付いているのである。だからこれは理由にはならない。そもそも不況になると母親は、子供の将来に期待をかけ、教育に関しての費用をおしまなくなるというのが定説となっているのである。
 それなら社員に問題があるのか?というと、そうでもないのだ。
 オッサンが入社したときの長崎支社の所長にしても、全国で五指に入るトップセールスマンだった男であり、福岡支社でその人ありと言われるほど、頭がキレると評判の新所長だったのである。
 しかしながら、一年としないうちに長崎支社は閉鎖されている。
 つまり、わけがわからぬまま、長崎支社は再開と閉鎖を、これまでに何度となくくり返してきているのである。
 風前の灯火とは、まさにこのことであり、この時点で長崎には、オッサンの帰れる支社はないのである。
 かといって、本部長へと直々にお伺いを立ててくれた田川所長へと、すぐに辞表を出すのも、あまりに忍びない。
 とりあえず、オッサンは本部長からの返事を待つことにした。
 そして半月後、その返事は来た。
 それによると、「大変申し訳ないことであるが、閉鎖している長崎支社を再開させる目処は、今のところついていない。けれども会社としては、一県に一支社という目標をかかげて頑張っているから、必ずやまた長崎支社を立ち上げる。出来るなら、所長として帰れるよう、もう少し頑張っていて欲しい」という内容であった。
 会社のトップである本部会から、このような返事をもらったてまえ、オッサンは嫌でも辞めるわけにはいかなくなった。
 残された道はただ一つ、所長として長崎へともどれるように奮闘努力するしかないのだ。
 しかるに、オッサンはまだ係長になったばかりであり、所長として支社をまかせられるには、最低でも係長一級か、あるいは、その上の課長代理にでもならなければ無理な相談なのである。
 所長としてといわれても、気の遠くなるような話なのであり、一年や二年で実現できる保証は何もない。
 だが、会社を辞めて、長崎へ帰ったとしてもオヤジは喜ぶはずもない。それどころか、情けないやつだと罵倒されかねない。なにより、それが自分の病気が要因のひとつだと知ったら、それこそ怒りをとおりこして落胆することだろう。
 無い知恵をふりしぼって、そう考えたオッサンは決心した。
 ここは、ひとつ頑張ってみよう。
 後二、三年でオヤジが死ぬわけでもないし、もしかすると、もっと早くに長崎支社が再開されるかもしれない。
 とにかく、やるしかないのだ。
 所長として長崎へ帰れたら、胸を張ってオヤジの前で自慢話の一つでもできる。
 今はまだ社会人に毛の生えた程度の青二才だが、これからさらに奮起して、オヤジでさえ一目置くほどの男になってやるのだ。
 こうして希望を新たに再出発をしたオッサンだったが、この一年半後に、オッサンの夢ははかなく消え去ることになる。

心は長崎・・・

 慰安旅行へいかなかったオッサンとしては、まったく気の毒な話なのだが、旅館へと帰って来てからが、さらに大変だったらしい。
 なにしろ、長野支社の所長に知られてはまずいのだ。
 さすがに慰安旅行で、前沢係長に酒を飲ませた者は、厳しい罰を与えるとは言わなかったらしいが、長野支社内では徹底していた。
 それなりの注意はしたはずである。
 まして、小林係長は、そこらへんの事情もオッサンから聞いて知っているのである。
 くれぐれも気づかれないようにとの注意をはらいながら、自分達の部屋へと連れて行き、五人で交代しながら朝まで見張っていたという。
 前沢係長は、前にも言ったように、急に静かになったかと思うと、また急に騒いだり暴れだしたりするのである。
 完全に寝入ってしまうまで、決して安心はできない。いや、完全に寝入ったと思ってもとうてい安心などできないのである。
 なんとかごまかしおおせたと小林係長は言っていたが、おそらく所長は感づいていたと思う。
 なぜかと言うと、酒乱となった前沢係長はかなり大量の酒を飲んだはずだから、いくら一夜が明けたといっても、酒を飲んだかどうかくらいは、その匂いだけでもわかるはずである。
 それに朝食もとらずに、二日目のバスに乗った前沢係長は、名所見物のときもバスから降りることもなく、ただ、ただ静かに眠っていたそうだから、所長でなくともわからぬはずはない。
 けれども、初めての長野と松本の合同慰安旅行でもあるということで、長野の所長は知らない顔をしていたのであろうとオッサンは推理した。
 「特に叱られもしなかったから、気付いてなかったのじゃないか?」と小林係長は言ったが、長野の所長は、あれで、なかなかのタヌキおやじなのだ。
 もしもオッサンが慰安旅行へと行っていたら、どれほど泣きつかれようとも前沢係長へは一滴の酒も飲ませなかっただろうし、松本支社の社員へも注意を促し、絶対に誘われても行ってはいけないとして、酒乱の前沢係長が出現することはなかったと思うが、どうだろうか?前回の慰安旅行で痛い目にあわされたオッサンへと前沢係長が、泣きついてくることもなかっただろうし、松本支社の社員を誘うときにも、所長とオッサンにだけは絶対に言ってくれるなとなっていたのかもしれない。
 小林係長には、災難以外の何ものでもなかった慰安旅行は、オッサンの欠席という、思いもよらぬ展開によって、前沢係長にとっては幸運であったと言える。
 むろん、オッサンはそれどころの話ではなかったのである。
 もちろん、すぐには無理な話だが、いずれ長崎へと帰らねばならない。
 それも、それほど遠からぬうちにである。
 場合によっては、この会社を辞めてでも地元へと戻らなければならぬかもしれないのである。
 オッサンは自分なりに悩んだ末、松本支社の所長へと相談をした。
 所長は、真剣に話を聞いてくれた。そして、なんと畏れ多くも、名古屋本社の本部長(会社の総責任者。つまり社長である)へと、一社員の個人的事情を報告し、なんとか希望を叶えてあげて欲しいと頼み込んでくれたのである。
 そして、そのとき、この会社の長崎支社はなかった。
 つまり、閉鎖された状態になっていたのである。