たしかに、「ギターの基本は同じだ」と言ったクラッシックギターの大先生の言葉は、決してまちがってはいない。
だが・・・ だがしかしである。もちろんのことに、この大先生は、オッサンのように街角で弾き語りなどはしたことがないのである。
いや、する必要がないと言ったほうが正確であろう。
つまり、この人は、クラッシックギターの世界では、知る人ぞ知る、すごい人であり、何人もの名ギタリストを育てているのだ。
おそらく、生まれも育ちも、オッサンとは真逆であり、整った環境で優れた音楽家の作曲した作品を、行儀のよい何百人というお客の前で演奏してきたのである。
オッサンのように、わめき散らすような歌声に合わせて鳴らすギターの音なんぞというものは想像したこともないのにちがいない。
クラッシックギター演奏というのは、一弦一弦を丁寧に弾いていく単音弾きが基本であり、美しくやさしい音色で、流れるようにメロディーを弾いていくものである。
これは、ギターという楽器の性質を最も効果的に表現しうる方法であろう。
これに対し、オッサンのストリートでやってる奏法は、ある決まったコードを指で押さえ、六弦から一弦まで、一気にジャランと弾き下ろし、弾き上げるという、かなりダイナミックというか派手な演奏である。
実際、浜の町アーケードと、コンサートホールでは、全く環境も状況も異なっているのである。
何となれば、コンサートホールとは、その演奏を聞くために集まった人たちの場所であり、浜の町アーケードは、そういう場所であるはずがない。
いわゆる雑踏なのである。足音や話し声、どうにかするとスピーカーからBGMまで流れていたりする。
こんな中で、一弦ずつ丁寧にギターを弾いたところで、まず聞こえない。
これは大げさに言っているのではなく、本当のことなのだ。
ギターを弾いている当人の耳に、自分が弾いているはずの、その音がきこえないのである。
であるから、クラッシック奏法での弾き語りを、浜の町アーケードでやるというのは、無茶というより、無理な話なのである。
それに、浜の町アーケードで弾き語りをやっているのは、オッサンだけであるはずもなく、何人もいる。それに十メートルも離れていない所で演奏をしているのだ。
小さな声で、小じんまりと演奏しているわけにはいかない。
別に競いあっている意識もないが、つい声の大きさでは負けないぞと、ムキになっている自分をときどきオッサンは発見する。
それなら、何故、オッサンは二年近くも、その教室へ通い続けたのか?
これには少なからず理由がある。
オッサンが入ったのは初級クラスであり、そこには五、六名の初心者が集まって来ていたのだが、なんと、ほとんどの人が初めてギターに触るという全くの新人さん達であり、その中でオッサンは、「ギターが上手ですね」と言われる存在であったのだ。
それともう一つ、毎月一回、そのギター教室では発表会と称してミニコンサートを行っていたのだが、そのコンサートで歌を唄ってくれと先生に頼まれたことも、やめずらかった原因の一つである。
考えてみれば、これも変な話しで、普通はギターを習って、その練習の成果を発表する場であるはずのところで歌を唄ってくれというのはおかしい。
そうなのである。一年もたつと、初心者だった人達は皆、はるかにオッサンよりも上手になっていた。すでにオッサンは落ちこぼれ組となっており、合同演奏などについてゆけなくて、それでも歌を唄えるという喜びを捨てきれなかったのであった。