これが、オッサンにとって最も情けなく、一番悔しいドジ話である。断るまでもなくオッサンの失敗は、数えたらキリがないほど起こったが、便利屋でのドジ話は、もうこれ以上語りたくはないので、これで御勘弁願いたい。
さて、話題を少し変化させよう。受付をしていたのが、女性だったと前に書いたと思うが、この人物もやはり、中学校の同級生であり、そのときちょうど会社を辞めて、暇をもてあましているところを、電気屋の友人が誘ったという話しである。
三人とも、昔ながらの知り合い同士だったから、気楽で良かったのだが、半年くらいして彼女はやめた。
もともと虚弱体質で、体が弱く、前の会社もそれでやめていたのである。
オッサンと電気屋の友人にしてみれば、便利屋の受付などは、それほど大変なこともなかろうと考えていたのだけれど、本人にしてみれば、毎日、事務所まで通ってきて、じっと電話番をするのもつらいということで、無理強いもできなかった。
その後、便利屋は、残されたオッサンと電気屋の友人とで二年間ほど続けられたが、なかなか思うようにはいかなかった。
相談の結果、とうとうやめようとなり、夢は儚く散った。
この電気屋の友人とは、今日でもつきあいがあり、たまに酒を飲んだりもするのだが、後々話を聞いてみると、彼は、オッサンの将来を案じて廃業を決めたというのである。
というのは、少しずつではあったが、仕事の依頼も増えていたものの、オッサンに与える給料は歩合制になっていて、それは普通のサラリーマンと比べると半分にも満たなかったのである。
発起人であり、営業者でもある電気屋の友人にしてみれば、かなり心苦しいことだったそうである。
もとより、単細胞なオッサンにしてみれば必ず成功すると信じ、微塵の疑いももっていないのだから、二年や三年は冷や飯を食う覚悟はしていたし、右も左も知らない便利屋という稼業を、やってみようと互いに合意してはじめたのだから、そこまで気に病む必要はなかったものをと、今でも、バカ話しのついでに、時々話題になる。
心配してくれるのは有難いことだが、オッサンも一応は、歴とした大人なのである。
感謝はするものの残念だという思いはのこる。
そして、この次にはじめたのが、タウン情報紙である。
これも結果的には、この電気屋の友人が話しをもってきてくれたことになる。
そもそものキッカケは、アルバイトを捜している人がいるから会ってみないか? ということだった。
電気屋が言うには、知り合いになった人が、力仕事や汚れ仕事を厭わない人を捜しているから、手伝ってみないかというのだ。
オッサンにしてみれば、便利屋の延長みたいな仕事であったから、「よしっ、やってみよう」という安易さで承知した。
とにかく、会って話を聞いてみようということになり、電気屋の友人と一緒に、ミュージシャンの集う、あのパブで会うことにした。
前に話したことのある、オッサンの高校の先輩が経営していた店の常連が、その社長であるとのことだったのだ。
友人と二人で畏まり、がらにもなく神妙にして待っていると、六十五から七十才程にはなっていると思われる
総白髪の老人が、赤ら顔をして、ニコニコと笑いながらやって来た。
少し酒も入っているらしく、上機嫌に陽気な挨拶をして、話をはじめだしたが、まさに恐るべき老人で、まったく話を切ることもなく、しばらくは延々と自慢話のようなものを聞かされた。