おっさんは経験により知っていた。
こういう場合、怒ったフリをするのが一番効果的なのだ。
ちょうど、いびきのひどい人の耳もとで大きな音が鳴ると、しばらくの間、ピタッといびきが止まる。それに似た現象が起こるのだ。理由は分からないが、恐いと思う人がいると酒乱もしばらくは止まるのだ。
かくして、前沢係長はモゾモゾと起き上がり自分の部屋へと向かった。
むろん、おっさん達も後から見守るようについてゆく。幸いなことに、おっさんの部屋は前沢係長とは異なっていた。
一応、布団に入って寝る格好をしたので、ひとまず安心とばかり引き上げてきたが、後日談によると、不幸にも同室となった者達は惨々なめにあったらしい。
そして、旅行の一日目の夜は、所長に知られることもなく、無事に済んだのだが、二日目の夜はどうにもならなかった。
次の日も、昼間のバスの中では、前沢係長はずっと眠っていて、おとなしいものだったが、夜 夕食をしながらの大宴会を、所長は用意していたのである。
おっさんは、前沢係長の暴れ出すのを確信していた。
よせばいいのに、その酒乱ぶりをしらない所長は、皆をねぎらうつもりであったのか、ビールや酒を充分すぎるほど準備して、ご丁寧にも自ら酒を注いでまわっていたのである。
そして、当然のようにその時はやってきた。
日本酒を、とっくりごと一気に飲み始めた前沢係長の目は、焦点が定まらなくなり、全身痙攣を起こしたミミズのような形になった。
こうなると、もう手がつけられない。
片手にビール、片手に酒とっくりを持って交互に飲みだし、時々むせては、志村けんのコントみたいに、口から酒とビールをタレ流すものだから、着ていた旅館の浴衣はびしょ濡れとなり、見かねてビール瓶を取り上げようとした新入社員の首を両手でしめはじめたのである。
それを間近で見た、所長をはじめ皆の目は点になっていたが、おっさんはすかさず、前沢係長をすでに、羽交い締めにしていた。
つまり、背後から両手を脇の下へ通し、首の後で手を組み合わせ締め上げたのである。
こうすると、両手は自由がきかなくなる。
怒った前沢係長は「お前は、そんなヤツかっ!」と、いつものセリフを吐き、おっさんへと攻撃目標を変えた。
ものすごい馬鹿力で、羽交い締めを振りほどくと、おっさんにつかみかかってきたのだ。
ちなみに、おっさんは柔道初段であるが前沢係長は三段である。
体格も身長こそ同じ位だが、体重は二十キロばかり係長が思い。けれども何も考えず不用意に組み付いた前沢係長の体勢は、おっさんの得意な体落としという柔道技をかけるのに、これ以上ないというつくり(体の崩れ)になっていたのである。
そして、技は映画のワンシーンを見るかのように見事に決まり、そのまま寝技の袈裟固めにおさえ、係長の右腕を素早く両足で挟み腕の関節を極めた。
すると驚いたことに前沢係長は急に大声を上げて泣き出したのである。
ポロポロと涙を流しながら、腕の骨が折れたと、わめき痛い痛いと大げさにくり返すのである。
おっさんは確信していた。折れてなどいない、人間の腕はそんなに簡単に折れはしないし、そんなに強い力を入れたわけではなかったのだ。
だが、全員の見ている前である。係長があんまり痛がるので、直ぐにわ技をはずし、おっさんは「すいませんでした。」と謝った。